創美流の歴史
渡邊家伝来品 初代鴻雲齋 瓶花の図
渡邊氏四十七代 流祖鴻雲齋宗興自筆
寛延三年 (1750年)
はじまり
創美流で流祖と仰ぐ初代は嵯峨天皇の皇子源融公を始祖と仰ぐ東根渡邊氏四十七代の元熙宗興
である。幕末長州に焼かれたその傷跡も生々しく元熙宗興筆になる瓶花図が伝えられている。
寛延三年六月十三日写之(活けこれを写す)と書かれているこの図は、元熙五代の孫五十二代
元韶翆山の手によって、 長州兵に焼かれた由の添え書きと共に軸巻として家元に蔵されている。
華道史料として明らかに東日本最古の資料でもあるこの瓶花図は記録の上での大切さに
止まらず、その筆跡からも元熙宗興の人となりをうかがうに足る大切なものとされ、毎年一月二日に
限ってこれを公開し、今日に及んでいる。創美流二百五十年の歴史は渡邊氏一千二百年五十七代の
四分の一の歴史を荷うものとなっているのである。
創美流は嵯峨源氏渡邊氏(東根渡邊氏、南北朝期、二十三代元綱の時に北畠顯家卿に伴って
陸奥の国に移って来たことから東根卿に土着した一統)四十七代当主鴻雲齋宗興渡邊七之丞
(1724〜1768)が、江戸に遊学の折、学んだものを定めたことによって始められたと伝えられ、
渡邊家当主によって代々伝承されました。
創流は長く不明でありましたが、この四十七代当主の描いた絵が残っており、そこに記されている
寛延三年六月十三日が文献上もっとも古い為、現在ではこれをもって創流元年としております。
二世四十八代鴻雲齋元道松淙、三世四十九代松韻齋元綱蘭涯、四世五十代鴻雲齋元興華陽、五世
五十一代脩靜庵元房翠渓、六世五十二代松韻齋翠山元韶、七世松韻齋理水、八世脩靜庵小原包月
と、古流庵家として翠山御家の流れとして伝えていたものを、九世脩靜庵華鴻によって流名を「創美流」
と改称すると共に、古流庵家としての古典を教授せず、盛花・自由花の流派として東北の地方流派で
あったものを、十世脩靜庵華泉を経て、58代当主11世脩靜庵元章華渓が東京に進出以後、一人でも
多くの人に活ける喜びを伝え、花を通じて日本文化に触れて欲しいとの考えから活動を広げ、全国は
もとより国際的な活動を繰り広げるようになりました。
その後、十二世松韻齋華璋、十三世五十五代松韻齋華邦(追贈)、十四世に十一世が重襲をし、現在は
五十七代十五世鴻雲齋華靖元興家元嗣が、古流脩靜庵として古典の教授を復活させ、眞創フラワー
アレンジメントを設立し、フラワーアレンジメントと共にプリザーブドフラワー、ドライフラワーなども
合わせて教授し、伝承と共に更なる広がりを見せて、いけばなの発信に努めております。 合わせて
御家流である茶道千家流脩靜庵として享受しています。
>>> 嵯峨源氏東根渡邊氏
創美流華道家元系譜
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華道訓
流是 創美流では、4世華陽によって流是として「平常心是心」と定められました。
脩靜庵華道訓
九世 華鴻宗匠遺訓
一、いけ花は神の創造になる美しさを更に人の手によって輝けるものとするのである。
一、華道は人の生き方の基本である。
一致と融和がなければ人間社会も、いけ花作品もなり立たない。
一、たゆまない精神のみが、花と人を一つにする。
一、鋏の音には年数がひびき、鋏の銹には怠りが現れる。
一、花に聞き、花の心になっていける。
一、一花一葉がいけ花の出発点であり究極点である。
一、落ちついて手ぎわよく、素直な態度で花を活けたい。
一、活ける人の人柄が作品に現れる。楽しい作品は和やかな人格から生まれる。
当流では、これを流儀の考え方の基本として華の道を教えています。
また、九世華鴻によって、水揚法十則が、十世華泉によって教授会会員の約束五条が定められ、
十一世華渓によって創美の歌が定められました。これらを合わせて、創美流の基本理念とし、
他にも華道三神・華道十徳等の「道」としての伝承を今に伝えております。
家元紹介・プロフィール
- 庵號
- 鴻雲齋四世
- 雅號
- 渡邊華
- 流職役
- 十五世家元
- 會役職
- 名誉會長
茶道脩靜庵 庵主(鴻雲齋宗興)
NPOいけばな文化振興普及協會いけはなworks 代表理事
大多摩華道連盟 理事長
菊音會 名誉會長
國神社獻華協會 理事
(財)日本いけばな芸術協会 特別会員
(社)帝国華道院 評議員
防衛省 自衛官募集相談員
自衛官募集相談員国分寺支部 副支部長 事務局長
自衛隊家族会 東久留米市・清瀬市・小平市・東大和市連合会 会長
全國渡辺会 副会長・事務局長
日本家系図学会 常務理事
多摩歴史研究會 主幹
國學院大學華道研修會 講師
現代神社と実務研究会 評議員
近江神宮日供神饌講 講元
談山神社 権禰宜 - 現講師
-
株式会社 山善華道部講師
クリスト・ロア 修道女会 華道講師
國學院大學 華道部講師
東星学園小学校 華道部講師
創流二百七拾年を迎へる令和二年庚子歳に豫定を致してゐました記念事業はすべて新型コロナ禍にて延期又教場も一時は全國的に閉鎖され本部會館も緊急事態宣言により四月一日より六月末日迄閉鎖七月に入り教場参加者のみとする入館規制を行ふ中での再開を致し今に至る迄の中で少しずつ致す中で少しでも文化の灯をと思ひ小さい乍ら無観客にて動画配信方式にて涼風七夕いけばな展を開催出来たのが唯一の活動でした
令和三年辛丑歳はこのコロナ禍も落ち着きを見せるのではないかとの期待を持つてゐましたが歳末より大きな感染の擦大を見て十二月よりは本部會館での飲食を伴ふ會合の中止を致し恒例である年頭の初顔合せの中止そして新年互禍會もせめて流人のみにて小さくでも開催をと計画してゐましたがとても収まる方向が見えませぬ為中止を決定そして二度目の緊急事態宣言の登出と成る中でこの十年に一度と成る佳節記念誌の編纂に嘗つてゐます
しかし乍らやはりこの禍中の為流門人との交流も出来ぬ中で参加者の御協力を頂ける方々が大きく減少する中での上梓と成りました
役員會も平常通りには開かれづ五月には記念式典これも延期としこの年の創美まつりは前年同様祭典齋行のみまったく先の見通しは立ちませぬ
様な中では有りますが正しく対応をして績けられる績けて参る事を大事にと努めて参る所存で有ります
早いもので私が華道を指導し始めて本年で四十六年Hを迎へ家元襲名より十四年と相成ります本年の書初は鐵樹開花と書かせて頂きました最後の地小さな花ですがさまゞな事で開かせて頂き度励んで参る所存で有ります
二百七拾年記念華展も昨秋より延期してこの春の開催としましたが感染が攘大する中で再度の緊急事態
宣言その延長に伴ひ涼風七夕展同様に小さく無観客に近い形での開催と成りました
先代を始め終身華逍精進された流門人の身罷る中その後を受け今に偲へむ事に努め励まれている幹部諸師を始め華逍織承に歩みを績けて行かれる流人に感謝申し上げますと共に流儀に御厚情御支援を賜つてゐます社寺佛閣後援者皆々様には引績きの御教導御鞭撻を衷心より御願ひ上げ本記念誌刊行に営りての御挨拶とさせて頂きます
創美の道側へ搬げむいそしみて永遠ねがひ我は歩まむ
禁足と心ならずも紳佛に猷華の典もかなはざる歳
家こもりはなのさかりも散るも有り梅雨にしてはや七髪化みき
この歳はさくら満つるも花ちるも時過ぎゆきて我隠り居り
仕事なく我寂しらの月日かな家内とAのゝ梅雨ごもりせる
令和三年辛丑歳 花祭